「自分で考える」
コムニタスは今年も受験シーズンに入りました。
早々に合格者も出ましたが、ほとんどの塾生は最後の仕上げに入っている段階です。
ちょうどオリンピックがありましたので、マラソン選手にたとえるなら、最後、スタートラインに立つための調整といったところです。
オーバーワークにならないように、かつ緩めすぎないように、バランスが重要です。
学科の勉強については、これまでの積み重ねが全てですので、インプットに関して、目覚ましい変化をこの時期に期待するのは、指導者として適切ではありません。
それよりもアウトプットに目を向けた方がはるかに効果的です。
実は、我々が一般に記憶力と考えている能力は、多くの場合、むしろアウトプット力を指しているのです。
多くの人は記憶ができたか否かの尺度は、テストなどで「書けた」、「言えた」ことで測定しているのではないでしょうか。
ですから我々は、現時点で皆の頭の中に書き込まれているものを、可能な限り正確な言葉に変換して、余計な言葉は削除し、漠然とした状態から徹底的に具体的にして、誰の目にも見える「形」にして世に送り出していくことを重視します。
そこで、我々は塾生自身の「見せ場」を作るように指示しています。
特に大学院受験者は、研究計画書について(これはこれで苦労して作ったのですが)、「一言で言うと、自分の言いたいことは何か」、「一番見てもらいたいところはどこか」、「要するに、(証拠集めとして)何(の作業)をするのか」などをさらに日々煮詰めています。
このようなアウトプットは、研究計画など、この数ヶ月積み重ねてきたことに対して、適切な言葉を当てはめることによって、最後に命を吹き込むことになるのです。
ダルマに目を書き入れる作業とでも言えるでしょうか。
研究計画を作るためにどれ程の労力を費やしたか、いかに真剣に研究テーマと向き合い、文献を集め、読んだか、どれほどの思い入れをもって大学院で成功するための自分を作ったか、このあたりがまさしく今問われているのです。
結構つらい作業ですが、本当に真剣に取り組まねばならないことなのです。
このような作業をする時、分かれ目になるポイントがあります。
それは「自分で考えることができる」か、否かです。
この数年、いわゆる「成功者」になるための書籍が、それこそ山のように出版されています。
それぞれいろいろなことが書いてあり、それはそれでおもしろいのですが、やはり通底するキーワードは「自分で考えること」と言ってよいと思います。
しかし、この「自分で考える」という言葉の意味は意外に奥が深く、一言で説明しきることはなかなか難しいと思われます。
ある程度自分なりの考えがあってもよいかもしれませんが、少なくともこの言葉の意味は、常に意識しておく必要があると思います。
今、この瞬間、まず何をしないといけないのかを考えるのも自分です。
自分の最もよいところを考えるのも自分です。
困った時どうするかを考えるのも自分です。
人生の分かれ道に来た時、どちらに進めばよいかを考えるのも自分です。
このように見ると、無論、研究計画などで、自分の見せ場を考えるのも自分になるわけです。
見せ場を自ら考えることで、様々な長所、短所が見えるようになってきます。
その上で良い部分をさらに良く見せるように仕立てていくのです。
これは服を着る、もしくは選ぶ時に、例えば脚を長く見せたい、ラインをきれいに見せたいなど、強調したいポイントを考えるようなものです。
そのようなことに意識が及ぶ人は、多くの面で自分を観察して、ある程度客観的に自分を見つめていると言えます。
しかし、一方で、自分で考えることができない人もいます。
研究計画の例で簡単に言うと、「1000字程度と指示されているけど、どのくらい書いたらいいですか」などという質問は多いです。
もちろん私たちは「1000字と指示されたら1000字」と言います。
しかし、本来はいわゆる「常識」に照らして(この常識がくせ者ではあるのですが)自分で考えることです。
このような意味で「考えられない人」の特徴として、
「何でも人任せにしてしまう」、
「主体的な行動を取ることができない」、
「自分で決断ができない」
などが挙げられます。
このようになってしまうと、自己の発言、行動に責任が持てなくなります。
そうすると、今、自分の発言が適切かどうかの判断ができなくなります(むしろ判断を放棄しているとも言えます)。
そして人を傷つける発言をしても気付かないということも生じやすくなります。
ここまで来ると、自分が何を言ったかを考える前にすべてを人のせいにしてしまいます。
自分が人を傷つける発言をしながら、指摘されると「そう言うあなたこそ」と相手に転嫁する人は意外に多いですね。
この現象は自己の行為を反省することをせずに、次の行動や発言に移ってしまっている証左と言えます。
そしてそのような人は、他人の話を聞けないようになっており、しかもそのことに気付かないのです。
もちろん絶対このようになると言っているわけではありませんが、何事においてもうまくいかない人のパターンであることに間違いはありませんし、このような状態を悪循環といい、それに陥ってしまった人も多く見てきました。
成功者になる、あるいは勝ち組になることが良いことだとは、私は思っていません。
成功者になっても、ならなくてもどちらでも、今の自分の状態を客観的に見つめ、そこにある程度満足した上で、さらに向上していくことを考えることこそが重要なのであって、漠然とした「成功者」にあまり固執しすぎると、失敗した人や負け組に対しての目線が欠けてしまいます。
また瞬間的に勝ち組になったとて、同じくらいの早さで転落している人が多いことは誰の目にも明らかです。
諸行無常・盛者必衰とでも言いましょうか。
そのような他者に対する視点はかえって成功者のものではないと考えます。
しかし、だからといって自分で考えることのできない人が適切だとも思いません。
このような悪循環に陥っている人には、どうにかして変容がもたらされる必要があると考えています。
それではどのようにして、悪循環に陥った自分を変容すれ良いのでしょうか。
これは人に変容させてもらうものではないと考えられます。
答えは、実際はいたってシンプルで、「自分で考える」能力を身につければいいのですが、それが簡単にできれば誰も苦労しません。
そこで少し目線を変えてみましょう。「自分で考える」という言葉の意味の話に戻しますが、ここにちょっとした思い込みがあるかもしれません。
それは「自分で考える」=「一人で考える」という構図のことなのですが、これは正しくありません。
自分で考えないといけないからといって、孤独にならないといけない理由はありません。
よく言われることですが、「勉強は自分でするもの」というフレーズがあります。
この点については特に異論はありません。
しかし、「自分でする」が「一人でする」になると、必ずしも正しいとは言えません。
たとえば、私たちのような塾や予備校を選ぶとき、どのような基準で決めるでしょうか。
いろいろな理由はあると思いますが、多くの場合、「自分で勉強するには限界があるから」と考え、自分一人では探し得ない、あるいは知り得ない情報などを塾に求めるのではないでしょうか。
つまり、別に勉強を一人でしないといけない理由はないのです。
実際、他人と一緒に学ぶこともあるでしょうし、多くの人の意見を取り入れることも必要です。
よい指導者がいるなら尚良いでしょう。
個人競技のスポーツ選手でも、練習パートナーもコーチもつけずに全て一人で練習している人というのはあまり聞きません。
つまり「自分で考える」作業に、他者がいても良いし、むしろ他者からの情報が必要なのです。
考えるには必ず情報が必要です。
情報がなければ人間は何もできないと言っても過言ではありません。
本来情報には金銭的価値が付加されます。だから人は情報を金銭で買ってきました。
新聞は今でもお金で買います。
ですから情報を作る側は価値のある情報を作成する能力が必要なのです。
研究者は情報作成者であり、提供者でもあります。
そしてこのような人は情報収集のプロフェッショナルでもあります。
情報を収集する際に認識しておかねばならないことは、まず「質より量」だということです。
「質」を云々するのは相当の量が手に入ってからと考えるべきです。
しかし一人で集められる情報には限界があります。
特に現代のような情報氾濫社会ではなおさらです。
もちろん自分一人でも情報は集めなければなりませんが、そこで集めた情報をできる限り多くの他者と交換して、あらたな情報を入手し、できるだけ多くの情報を獲得し、使用できるようになることが重要なことです。
そのためには他者との交換に耐えうる価値のある情報作成能力が要求されます。
「考えられない人」は、このような情報に関する基本ができていない場合が多いと言えます。
どのような分野においても情報量があれば自分で考えることが可能になり、危機に直面した時にパニックにならずに有効な思考が生み出されるのです。
コムニタスでは常にオープンスペースですので、スタッフと塾生がいつも同じ空間にいます。
ですから、講師と塾生のコミュニケーションは当然のこととして、塾生同士の情報交換も普通にあります。
このようなコミュニケーション能力は、将来あらゆる局面で、塾生にとっても、スタッフにとっても財産になると思います。
成功者の条件として、よく「人脈」が指摘されていますが、人と人とのつながりを求めるにもやはりコミュニケーション能力は不可欠なものなのです。
新しい人に出会って、互いに価値のある情報が交換された時に、初めて人脈が芽生えるのです。
自分で考えることができないと、いかに不利益なことであるか、我々はよく理解しておく必要があります。
しかし、自分で考えられない人同士が出会うと・・・今、世の中では規模の大小問わず大変なことがあちらこちらで起こっていることには及ばずながら憂慮せざるを得ません。
突然仏教の話をします。
仏教にはパーリ語という言語があります。
これは原始仏典用語とも言われますが、現代でいうエスペラント語のようなものです。
ビルマ文字、タイ文字など様々な文字で表記される言語であることが特徴の一つです。
このことは、民族、国境線を越えて、仏教を共通のコミュニケーションツールとして、様々な人々が対話をしていたということを意味します。
一つ事例を挙げますと、パーリ語で書かれた文献に『ミリンダパンハ』というものがあります。
ここにはインドの仏教僧侶と、実在の人物とされるギリシャ人のメナンドロス王との対話が収録されています。
かつてアレキサンダー王以来、ギリシャがインド近辺まで勢力を伸ばしていたことはよく知られています。
その武力大国と一人の仏教僧が対話をしたのです。
もちろんギリシャには別の宗教があったと思われますが、王自ら仏教徒の声を聞き、仏教の基礎情報を得たのです。
当時インドで仏教を知るということは、その地域の生活状況を知ることにつながったことは間違いのないことです。
このことの意味もよく考えてみる必要があると思います。
また、かつて植民地時代の大英帝国は、インドを植民地にした17世紀、大量の学者をそこに送り込み、徹底した情報収集を行いました。
その副産物として大発見も大量にありました。
その発見に影響を受けた学問は非常に多くあります。
彼らの情報収集の目的はとりもなおさず金儲けだったと思いますが、実は当時のインド人たちは大英帝国に対してそれほど大きな敵愾心はなかったとされています。
彼らはインドの人々がどのような状況であるかを情報収集によって的確に把握し、時には仕事や金を与え、時には教育を与え、無駄な争いを回避したのです。(決して美談ではなく、あくまで大英帝国の一方的都合によるものではありますが、その時代のインドの人々は必ずしも大英帝国のやり方を否定したわけではなかったのです)
これに対して、ちょっと考えれば回避できるはず争いを回避せず、対話なき世をつくる指導者は是非とも反省をしてもらわねばならないと感じます。
ちょっとした努力や工夫でどうにでもなったこともたくさんあったと思うのです。
それをせず(しようという意思も見せず)、取り返しのつかなくなった怨みや報復の連鎖が半永久的に続いていることはあまりに不幸なことです。
また我々個人レベルでも、ちょっと考えればおかしいとわかるはずなのに、考えようとさえしていない、知ろうともしない、少しの情報を集めようとさえしていないことにも反省が必要なのだと感じます。
国や社会レベルの悪循環を招く第一歩は、このような個人レベルなのだと思われます。
例えば環境問題です。
これだけ環境について騒がれていれば、我々も他人事ではないことはわかります。
それにも関わらず、「個人でできることから」などというキャッチフレーズのもとに、大手のスーパーに行って、レジ袋に5円払う・・・本当にこれが個人でできる活動なのか・・・ちょっと考えればわかるはずなのに・・・そんなことより、まず企業側が送迎バスをやめる方がどう考えても先にやるべきことなのに・・・彼らが電気代、燃料代いくら払ってるか公表できるのだろうか・・・どうみてもレジ袋もエコバッグも、送迎バスも環境保護ではなく金儲けなのに・・・そんなことより、皆が夜は寝た方がいかにエコ活動になるか・・・ちょっと考えればわかるはずなのに・・・
環境問題の正確な情報は実はほとんどの人が持っていません。
二酸化炭素の減らし方は知っていても、地球の温度の下げ方を知っている人はいないと思います。
情報があるなら、素朴に考えておかしいものはおかしいと言えると思います。
謙虚に、丁寧に、丹念に情報収集し、それをうまく使用していくことで、今やらねばならないことが理解でき、少しずつですが自分が変わっていくのだと思います。
もし「個人でできることから」などという言葉を使うなら、まず正確な情報を集めることから始めるべきです。
その上で、その情報を駆使して自ら正しいことを考える能力を身につけるべきです。
これが欠落していると、人間の思考も心も感情も行動もおかしな方向に進んでしまうのです。
最後に我が師の言葉・・「正しいものは誰が見ても正しい、ダメなものは誰が見てもダメ」
一見当たり前なのですが、意外に奥が深く、私自身もこの言葉の意味を常に自分なりに考えながら、生活しています。






